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全国犯罪被害者の会■マーク 意見書・声明
犯罪被害者のための施策を研究する会の補充意見
弁護士  岡 村  勲 --- 2003.11.15 ---

本日2003年11月14日貴委員会において意見をのべましたが、時間的な制約もあって意を尽くすことができませんでしたので、補足させていただきます。
 私は、治安維持法、特高警察による人権侵害の余韻が残っている昭和34年に弁護士になりました。国家権力による人権侵害を防ぐことに情熱を燃やすいわゆる人権派弁護士で、60年日米安全保障条約改定に反対して国会に乱入した学生たちの弁護をはじめ、八海事件、丸正事件など冤罪事件を担当しました。

裁判官の訴追請求もし、法廷等の秩序維持に関する法律による制裁を受けそうになったこともあります。従って、刑事司法は、国家対被疑者・被告人の関係を定めるもので、被害者が入り込む余地はなく、被害者の刑事司法上の地位、権利について念頭にありませんでした。
ところが、弁護士生活38年目に犯罪被害者遺族になって、被害者を手続から排除する刑事司法制度がいかに被害者を苦しめているか、その不合理さを身をもって知らされました。
被害者が苦しめられる具体的内容は供述書に記載していますが、その根本は、事件の当事者でありながら、捜査、裁判の資料、証拠品として扱われ、人格、尊厳が無視されていることにあります。
前回の研究会で、「検察官が被害者の立場に立って法廷活動をすれば、被害者が訴訟参加しなくても十分ではないか、それでも参加したいというのは気分の問題か」といった趣旨の質問をうけ、「検察官は公益の代表者であって被害者の代理人ではなく、被害者を完全に代理することはできない」旨の回答をしましたが、この答えは正確ではありませんでした。

妻の事件の例で申しますと、一審の途中から担当された立会検察官は、極めて優秀な方でした。事件の経過、真相、法律家に対するテロ行為の社会的影響、加害者の性格など充分に把握し、不可能と思えるような証拠品を探し出し、被告人の主張に適切な反論を加えていかれました。さらに温かい心情の持ち主でもあり、遺族感情を十分に理解し、代弁してくださいました。この検察官によって私たちはどれだけ救われたかも知れません。

これ以上望むべくもない検察官にめぐり会えたことに深く感謝いたしております。裁判所も、判決に不満はあるものの、同じ法曹である私には気を遣ってくださいました。捜査についても、情報提供その他に充分でなかったとはいえ、同様に気を遣ってくださいました。このように通常の被害者に較べて恵まれた環境にあった私でさえ、司法制度に根本的な不信を抱いたのです。

被害者が捜査、公判に協力するのは、
  1. 加害者と犯罪事実の詳細を知り、

  2. 被害者の名誉を守り、

  3. 加害者に対して適正な刑罰が下されることを願っており、
    国がこの願い(被害者の利益)に応えてくれることと期待(信頼)するからであると供述書に記載しましたが、被害者はこれを国に期待するだけではなく、自らもその実現に努めたい願望を持っています。

特に被害者は、国家によって復讐権を奪われましたが、復讐権を奪われたからといって口惜しい気持ち、無念を晴らしたい気持ちがなくなるわけではありません。
実力で反撃できないのなら、せめて法廷で加害者と言論で戦い、反撃したいと思うのは当然です。もちろん戦う、反撃すると言っても感情的になって法廷を混乱させることではなく、正々堂々と反論、質問することです。ところが、傍聴席に座らされて、なに一つ加害者に問いただすこともできず、虚偽の言い逃れに対しても反論できない、名誉を傷つけられてもじっと我慢しているしかありません。被告人は、法廷で言いたい放題言えますが、被害者は言えません。被害者は不公平感を抱くのです。この無念さ、口惜しさは想像を絶するものがあります。

私は、毎回公判の後は、この口惜しさと事件のフラッシュバックで、1週間くらい寝込んでしまいました。

証人になったとき纏めて反論しようとしても、時期的にも遅くなり、気の抜けたビールのようになってしまいます。しかも被害者は検察官の質問に答えるだけで、自主的な活動をすることはできません。

検察官と詳細に打ち合わせしていても、被害者の思いをすべてカバーすることはできません。被害者は別の角度から質問や反論したいことがあるのです。妻の事件では、検察官はじつによく反論して下さいましたが、それでも自分が反論できる立場に置かれていないことは堪えられない苦痛でした。ましてや検察官一般が妻の事件の検察官と同じように優秀な方ばかりだとは限りません。


ミュンヘン大学のシェヒ教授は、ヨーロッパ調査団に対して、ドイツにおいて

被害者の参加を認めるのは、憲法の人格権に由来し、被害者の尊厳を守るためである、

といわれました。わが国において被害者が刑事司法に不信を抱くのは、その人格、尊厳が守られていないからです。
被害者の人格、尊厳を守るには、被害者を証拠品として使い捨てにせず、当事者として参加させ、加害者と対峙させる以外にありません。
刑事司法を、国家対被疑者・被告人の関係だけでなく、被害者対被疑者・被告人、国家対被害者の関係に再構築することです。被害者の権利をできるだけ被疑者・被告人の権利に近づけて不公平感をなくすことです。そうしなければ司法不信はなくならず、「こんな司法制度ならいらない。被害者の手で裁判所をつくる必要がある。復讐権を返せ」などという意見が出てきます。犯罪に遭いながらどうして公の秩序維持の証拠に使われなければならないのか、被害者の利益が公の利益の中に埋没してしまわなければならないのか、反射的利益ではなく被害者の利益自体をどうして守ってくれないのか、権利意識に目覚めた被害者の思いは広がっていくのです。


検察官が被害者にできるだけ近づいたとしても、被害者そのものになりきることはできませんし、また気分の問題ではなく、もっと本質的な次元の問題です。

フランスでは、被害者にできるだけ加害者に近い権利を与えようとしていますし、ドイツも同様です。
当事者主義のイタリアでも参加は行われています。

アメリカでも多くの州で態様は別として参加が行われています。「犯罪被害者に関する大統領作業部会」の最終報告書で、「被害者たちは被告人に劣らず裁判所で重視される資格を有する。被害者たちは被告人に劣らず、自分たちの見解を斟酌してもらう資格を有する。裁判官は、その犯罪が被害者にどのような負担を与えたかを知ることなくしては、被告人の行為の重大性を評価することはできない。被告人が被害を生じさせた者の声を聞くことなくしては、被告人によって与えられた危険についての正確な情報に基づいた決定を行うことができない」とあるとおり(日弁連第46回人権擁護大会シンポジウム第一分科会基調報告書96ページ)、参加の問題は進みつつあります。

刑事司法は公の秩序維持のためばかりでなく、

被害者のための正義(Justicefor Victims)を実現する

ものでなくてはなりません。


以上私たちが、もっとも重要な問題としている点について申し上げました。是非とも被害者の人格と尊厳を守る、被害者のための刑事司法を実現して頂きたく、お願い申し上げます。

また、公判記録の謄写については、1枚につき40円ないし45円の費用を負担させられ、数十万円の支出を余儀なくされた被害者もいます。被害者保護のためにも、無料にしていただきたいと存じます。
以上

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