VOICE (ニューズレター)


2013年10月8日東京高裁は裁判員裁判による一審判決(死刑判決)を覆して無期懲役を言い渡しました。
今年6月にも、今回と同じ被害者1人の強盗殺人事件で、裁判員裁判の死刑判決を初めて破棄し、無期懲役を言い渡しましたが2度とも村瀬裁判長による判断でした。
あすの会は下記のように考えます。
  東京高裁判決(刑事第10部)は国民に対する裏切り!
  1. 東京高等裁判所第10刑事部(裁判長:村瀬均)は今年の6月と10月、2件立て続けに裁判員裁判の死刑判決を覆し、無期懲役を言い渡した。同じ裁判官による驚くべき独善である。

  2. そもそも、裁判員制度は、国民の日常感覚や社会常識を判決に反映させることによって、従来の職業的裁判官が陥りやすかった誤りを是正し、司法に対する国民の信頼を回復することなどを目的として平成21年5月から施行された民主主義的な司法制度である。

    この点、裁判所のウエブサイト「裁判員制度Q&A」にも、「裁判員裁判は、これまでの刑事裁判が国民にとって理解しにくいものであった反省から、裁判官と裁判員の知識経験を生かしつつ一緒に判断することにより、より国民の理解しやすい裁判を実現することを目的に提案されました。

    一言で言うと、裁判の進め方や内容に、国民の視点、感覚が反映されていくことになる結果、裁判全体に対する国民の理解が深まり、司法が、より身近なものとして信頼も一層高まることが期待されて導入されました」とある。

    ところが、二件の東京高裁判決は、過去の裁判例に照らすと、死刑の選択がやむを得ないものとは言えないとして、先例を重視する姿勢を鮮明に打ち出したのである。

  3. 2件の東京高裁判決は、次の点で、国民の感覚から著しく乖離している。
    6月判決の事案は、妻を刺殺し、幼少の二人の子供も殺害しようとして自宅に放火し、娘を焼死させた事件に対して懲役20年の刑に服した被告人が、満期で出所後、わずか半年で、本件の強盗殺人を敢行し、1名を殺害したというものである。

    東京高裁は、「(死刑を選択した裁判員裁判の)原判決は、被告人に人の命を奪う重大な前科がありながら、服役後短期間のうちに本件に及んだことを相当重視したものと思われる。」「しかし、一般情状である前科を死刑選択に当たり重視する場合、これまでの裁判例には一定の傾向がみられることに十分に留意する必要がある」とし、「この点に関する先例の量刑傾向をみると」と述べ、殺害された被害者が1名の強盗殺人の事例で死刑が選択されたのは、「無期懲役刑に処せられ仮出所中の者が、再度、前科と類似性のある罪を敢行した事案である」から、満期で出所した本件事案はそれにはあたらず、死刑がやむを得ないとは言えないとして無期懲役に減刑した。

    しかし、仮釈放が認められず、満期で出所する方が受刑態度が不良のことが多いのであるから、高裁判決が言うように「被告人は、まじめに服役して全ての刑期を終えてその執行を終了している」ことを良情状する裁判官の感覚こそ、一般国民の常識からかけ離れているものである。

    一方、10月判決の事案は、被告人が、マンションに侵入し、当時21歳の女性に包丁を突き付け、両手首をストッキングで縛りあげて、現金やキャッシュカードなどを奪い、首や胸を何回も突き刺すなどして殺害した強盗殺人事件である。

    さらに、翌日再び被害者のマンションに行き、証拠を隠滅するために放火して死体を焼いた非道な事案である。そればかりではない。住居侵入・窃盗が3件、住居侵入・強盗致傷事件が1件、住居侵入・強盗致傷・強盗強姦・監禁・窃盗が1件、強盗致傷が1件、住居侵入・強盗強姦未遂が1件についても、併合して起訴されている。

    しかも、被告人はこれだけの犯罪を、平成21年9月16日から11月13日までの2か月足らずの間に犯しているのである。加えて、被告人は昭和59年に強盗致傷、強盗強姦で懲役7年に処せられ服役し、平成14年に住居侵入、強盗致傷で懲役7年に処せられて服役している。ところが、このような事案でさえも、東京高裁は、殺害された被害者が一人で計画性がない場合は、死刑が選択されないのが先例であるとして、これまた死刑判決を破棄してしまった。

    確かに計画性は、刑を重くする一つの事情ではある。しかし、これを過大評価すること自体、国民の常識的な感覚に反しているのではないか。「計画性がなくては目的を遂げられない犯罪もあるだろうが、本件の被告人のように、手あたり次第に住居侵入、窃盗、強盗、強姦、殺人、放火等を繰り返す犯罪者の存在は、一般国民にとって恐怖そのもの」だからであり、「それを、杓子定規に「計画性なし=刑が軽くなる事情」としてきたことが、国民の司法に対する信頼を失わせてきた」と、従来から被告人を弁護する職域が多かった弁護士の団体ですら、きっぱりと意見表明をしている(犯罪被害者支援弁護士フォーラム(VSフォーラム)ホームページ)。

    さらに、被害者が一人だから死刑がやむを得ないとは言えないとはどういうことか。非道な罪を犯した加害者の命の重さが、善良な市民の2名分以上の重さがあるとは、よくぞ言えたものである。こういったところに、裁判官の感覚が市民の感覚からはずれていると批判されてきたのではないか。

  4. 平成25年10月16日付産経新聞社説によると、2件の東京高裁の判決の背景には、過去30年間の裁判官裁判による死刑・無期懲役が確定した殺人・強盗殺人事件を調査し、被害者の人数別に先例の傾向を分析した昨年7月に公表された最高裁司法研修所の研究報告があると解説されている。

    同新聞が言うように、もし、国民の常識よりも、たかだか一研修所の見解を東京高裁が重視したのであれば、国民を見下していると言うほかない。

  5. 東京高裁は、国民の常識や感覚から乖離しているものである。
    このような職業的裁判官による先例に問題があったからこそ、裁判員制度が導入されたはずである。それなのに、先例に反するから裁判員の判断は誤りだというのでは、裁判員制度の否定である。

    東京高裁の判決は国民の信頼を裏切るだけでなく、法を守るべき者が、裁判員法という法制度に挑戦しているケースだとも言える。
    もし、今回の加害者が将来、仮釈放が認められて出所し、再び罪を犯したら、一体、誰が責任を取るのであろうか。

    検察庁がこれを上告せず、また、最高裁が破棄しないのであれば、国民は司法を信頼しなくなるであろう。
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