TOPICS(ニューズ・レター)


オウム裁判を通じて
幹事 假谷 実 (2003.8.20)

1995年2月28日、父假谷清志(目黒公証役場事務長)を拉致・殺害。
3月20日、地下鉄サリン事件を実行。3月30日、国松警察庁長官狙撃事件発生。この5年半前、1989年11月に坂本弁護士一家が行方不明になっていた。


そして事件から約6年後オウムによる犯行が明らかになった。オウムの組織的・非情的犯行に身の毛が立つ思いである。幼い子までも。 坂本一家の捜査が適切に行われていたならば、その後の事件は起こらなかったであろうと悔やまれる。 オウム裁判の問題点と考えていることを幾つか記述します。

まず1点目は、麻原を頂点とした組織犯罪であり、麻原の指示が絶対であったとして、信者である(あった)多くの加害者が、罪の軽減、極刑の回避を狙っている(た)ことである。
 例えば、假谷事件について、企画(偵察を含む)、拉致(逮捕)、監禁、暴行・殺人(麻酔の大量投与とナルコという拷問)が、一連の組織的行動で実施された。裁判は、個々の加害者の犯行を区切って行われたため、それぞれは軽い罪でしか裁かれなかった。殺人の部分でも、麻原の殺害(ポア)指示はあったが、手を下す前に偶々假谷清志が死んでしまったから、殺人罪ではないらしい。

 現に、父の亡骸に対して、信者に度胸を付けさせるためとして、あたかも生きているかのように思わせ、クビを締めさせたのだ。生きて帰す意思がなかったのだから、すなわち殺害の意思はあったと考えるべきである。組織的犯行であるならば、直接手を下さなくても、全員が人の尊い命を奪った責任を取るべきである。彼らは、未だ生きてこの世の空気を吸っており、多くは家族とともに暮らしている。しかし、私たちは、父に2度と会えない。

2点目は、裁判の長期化である。とくに、麻原の裁判に関しては、弁護側の引き伸ばし工作としか考えられない尋問などには、正直いって腹が立つ。加害者に関する裁判費用(国選弁護人を含む)および勾留費用(衣食住など)は、被害者自身も納めている税金によって賄われていること、それに比べて、被害者には少額の犯罪被害者給付金くらいしか給付されないこと、これらのアンバランスに納得がいかない。

 裁判の長期化によって、加害者には税金がどんどん注ぎ込まれ、被害者の負担はどんどん膨れ上がっている。サリン等による被害者および家族が負担する治療費も少なくはないはずであり、看護・介護における家族らの精神的・肉体的負担は、想像を絶する。彼らに誰が救いの手を差し伸べるのだろうか。加害者の罪を償う意思が本物であり、被害者が許せば、一生涯、病で苦しむ被害者の世話をすることもあってもよいのではないか。

オウム事件に拘わらず、全ての事件にいえることだが、
「加害者の人権を擁護する前に、被害者の人権を確立して欲しい!!」

いくら賠償金を積まれても、刑事裁判で極刑が下っても、被害前の幸せな生活に戻ることはありえないのだ。
第1歩として、被害者を裁判に参加させること、被害を回復する制度を確立することを、国の責任として表して欲しい。

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