去る9月3日、「死刑執行停止に関する岡山公聴会−冤罪事件と死刑執行停止を考える(主催 日本弁護士連合会・中国地方弁護士会連合会・岡山弁護士会)」で意見を述べる機会をいただきました。6項目に分けた原稿を作りましたが、全てを掲載することはできないので、結論の一部と「死刑廃止は世界の潮流」という事への私の疑問点を紙面を借りて紹介させていただきます。
この公聴会の最終目的が、「凶悪犯罪者の社会復帰を、最初から前提にしている死刑廃止運動の一環」と位置づけておられるのなら、最初から、このことを国民全体に明確に表明しておかなければ、国民をダマシにかける行為となることを指摘します。
なおかつ、社会復帰した犯罪者が再犯した場合の責任の所在を明確にしておいていただきたい。とてつもなく重たい責任です。その責任を誰が取るのかという事であります。 死刑執行の一時猶予を行い、犯罪の数が減るか増えるかという観点は、国民の安全・生命を実験台にした犯罪行為に匹敵すると思います。人の命が尊いというのであれば、毎年殺人者に殺されている1400〜1500人の命の尊さを真っ先に考えるべきであり、犯罪を無くすという問題解決に取り組む事の方が先決ではないでしょうか。
冤罪の問題は、「誤判が起こらない刑事司法システムを構築する」という中心点にベクトルを向けるべきであって、国民の心に「誤判の怖さ」を植え付け、死刑執行停止をめざす運動は「やってはいけないこと」だと犯罪被害者の立場から結論させていただきます。
(死刑廃止は世界の潮流という事について) 〔年報・死刑廃止2003〕という本に、 【議会・議員は死刑存置の世論が多数であっても、世論を死刑廃止にリードしていくべきである。議員が死刑制度廃止にもつ役割は、議員の権利であるばかりでなく義務でもある。世論がまだ整っていないことを理由に死刑廃止の法律を立法出来ない、承認出来ないという論拠は成り立たない。議員は前線に立って道を示すべきである】とあります。
この言葉の裏側には、自己目的完遂のために世界は存在するかのような独善があると、私は思います。人道の名を借りた偽善の押しつけであり、まるで独裁者気取りです。
「死刑廃止は世界の潮流」と喧伝されておりますが、その実態が国民全体の意識の高まりから廃止したのではなく、強引に議員達を誰かが巻き込んで死刑廃止国にしてきた経過としての「潮流」であるのなら「いかさまの実態」を証明している言葉として捉えるべきではないでしょうか。
私は今、それらの国々を実態調査してみたいとの強い衝動に駆られています。どういう経緯で死刑が廃止されたかという事が知りたい。その国の被害者の置かれた実態や、国民が死刑廃止をどう受け止めているかを知りたい。
死刑廃止国になった国にはきちんと被害者の権利があるのでしょうか。
我が国では、被害者の権利は昨年12月1日、基本法の成立で確立したばかりです。
死刑を廃止した国々の被害者が、もしも、司法から完全に切り離された「蚊帳の外の存在」であるとしたら、被害者のことなど一切眼中にない、異常に偏った思想を世界に広め、一方的に死刑廃止を推し進める、「欺瞞行為の累積」と評価せねばならいと私は思います。
以上、言葉たらずではありますが、皆様からのご意見お待ちしています。
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