法務省は平成21年3月31日、
「凶悪・重大犯罪の公訴時効の在り方について〜当面の検討結果の取りまとめ〜」を発表した。
時効の廃止について、様々な視点から論点を提起するもので、どれも実に良く検討されていて分かり易い。また、いくつかの考えられる制度も紹介されている。
時効の廃止については、一部から反対論も出されている。ある論者は、長い時間が経てば被害感情もいつの間にか薄まるからだと説明する。
しかし、大切な人の命を奪われた殺人事件の遺族、かろうじて命が助かった傷害事件の被害者やその家族の無念さ・悔しさは、犯人が捕まらないで時間が経てば経つほど募っていくものである。時間が解決するなどというのんきな意見は、凶悪犯罪に遭ったことのない幸せな人が言うことだ。
犯人が普通の生活を送っていると想像するだけで、被害者の胸は張り裂け、「今日の捜査はどうだったのだろう」と祈るような想いで、毎日を過ごしているのが現実である。
犯人が長い逃走生活の間に築いた幸せな生活を、一気に壊すのは忍びないという不可思議な意見も聞く。逃げ得で作られた犯人の生活と、事件の日から時計の針が止まっていて、一歩も前に進めない被害者と、どちらを保護すべきかはあえて言うまでもない。
また、時間が長く経つと証拠が薄れ、立証が困難になることも時効を維持する理由として掲げられている。しかし、時間が経つとかえって科学技術が進歩し、新たな立証手段が現れることもある。
たとえば、DNAが犯罪捜査に取り入れられた最初の頃は数百人に1人しか特定できないといわれたが、現在では、4兆7000億人に1人とも言われている(世界の人口は66億1590万人/2007年)。
きちんと証拠が残っている事案もあるし、時間の経過により、かえって証拠が見つかったりすることもあるのだから、証拠が散逸すると一概には言えない。
最近は、経済的補償や精神的ケアを充実することで被害者支援を図るべきで、公訴時効の廃止は安上がりな被害者対策だと論難する団体も現れた。
これは、あめ玉をしゃぶらせて被害者を黙らせようというもので、被害者の自尊心を著しく傷つけるものである。
経済的支援や精神面のケアそれ自体は大切なことであるが、ただ、これを枕詞のように使っては欲しくない。
もっとも一方で、時効を廃止するとなると、捜査機関の負担も考えないといけない。確かに、法治国家を維持していくための必要経費だと割り切ることも可能だ。
しかし、そうは言っても、1000年、1万年と捜査をしてくれとは、さすがに被害者も言わない。そこで、人が生存可能な年月まではせめて捜査をしてもらい、その後は、捜査義務を免除することも一つの解決策だ。
ただそうすると、では、廃止ではなく時効期間を長期に延長すれば済むことではないかという反論も聞かれそうだ。しかし、廃止か延長かは倫理観の問題で、そう簡単に、延長でも同じことだと割り切れるものではない。
また、せっかく廃止するのであるなら、現在、時効が進行している事件にも適用して欲しいと思う。これは遡及処罰禁止の原則(憲法39条)に反するという人もいる。
あることをしたときに犯罪とされていなかったのに、あとから法律を改正して犯罪と見なされることを禁止する憲法の大原則の一つで、不意打ちをしてはいけないという理屈だ。
しかし、時効の廃止は、犯罪でないものを法を改正して後から犯罪にする訳ではないから、必ずしもこの原則に反するとは言えない。
今年は犯罪被害者等基本法ができて5年目の、節目の年である。その前文には、「犯罪被害者等の多くは、犯罪等による直接的な被害にとどまらず、その後も副次的な被害に苦しめられることも少なくなかった。
国民の誰もが犯罪被害者等となる可能性が高まっている今こそ、犯罪被害者等の視点に立った施策を講じ、新たな一歩を踏み出さなければならない」とある。
犯人の逃げ得を国家が保障することは、典型的な副次的被害である。それを乗り越えて、今こそ、新たな一歩を踏み出すべきではあるまいか。
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